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夢幻ものがたり 隅田宿・石浜湊・石浜城 [行きつけの]

     名にし負わば いざ言問はむ都鳥 わが思ふ人は ありやなしやと
平安時代初期の「伊勢物語」東下りあづまくだり で有名な在原業平ありわらのなりひら がこの歌を詠んだ所は、言問橋ではなくて、隅田川の渡しのうちでも最も古い「橋場の渡し」とされていて、現在の白鬚橋タモト付近。
          Myボスの記憶でもココラヘンは、昔の春の行事で東京湾の潮干狩りに船を出したところトカ。
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橋場の渡しあたりは、業平だけでなく平安時代から源氏など東国武士が奥州に行くルートにあって、周辺には武運を祈った神社なども。かつては古利根川・荒川・入間川の合流地点で、近くには現在も「汐入」という地名が残る江戸湾の最奥部だったところ。当時の奥州街道は隅田川で唯一の橋場の渡しをいくのが筋だったソウデ、橋場は、船2艘を4艘に増船したと書かれた835年(承和2年)の記録が残る国営?の渡し場、街道の要衝になっていたソウナ。
東の岸には「隅田の宿」ができて、一時は"隅田千軒"と言われるほどの賑わいがあったようだ。 西の岸には、西国から大型船も着ける港「石浜の湊」みなと もあり、東西両岸で海上と陸上の交通が活況を呈し、鎌倉幕府の成立の頃には、平氏の流れをくむ武蔵の豪族「江戸重長えどしげなが の軍事拠点「石浜城」もあったという。
  ナノデスガ、橋場の渡しは何度か場所が変わっていて、隅田の宿、石浜城、石浜の湊とも当時の遺跡などもなく、その後の須田の橋も含めて、モハヤ夢幻になってしまい、よう分からんのデ、ご容赦デス。
     ムカシこの辺りに子どもたちが"トカゲ山"と呼んで遊び回っていた石垣の土塁があったの・・・とMyボス。
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                                   ここから、イイクニつくった?源頼朝とこのあたりの昔話。
鎌倉時代末期の歴史書「吾妻鏡」あづまかかみ によれば、13歳で平治の乱に初陣し敗れて殺されるところを命乞いによって伊豆蛭ヶ小島ひるがこじま で20年間流人生活を送り34歳になっていた源頼朝が、1180年(治承4年)伊豆で旗上げ。ガ、初戦の石橋山の戦い(神奈川県小田原市)でマタ敗れてしまい、船で房総安房(千葉県鋸南町)へ敗走。頼朝は、そこで数万の軍勢を整え再挙兵して市川まで来たが足止め、ようやく隅田川に船をならべた浮き橋を作って渡河して陣を張り、これに石浜城にいた重長がようやく参上して頼朝軍に合流。重長がしつらえた浮き橋を渡って滝野川、板橋から府中、相模をへて鎌倉に入り、その後義経の活躍などがあって幕府を樹立スルコトニ。
デその後、女性作者後深草院二条による鎌倉時代の文書「とはずがたり」によると、1290年(正応三年)にこのアタリには、清水や祇園の橋に似た「須田の橋」という大橋が架かっていたと記録されていて、現在の「橋場」の地名のモトになったとも。いつの頃か消失してるンですが、その橋は頼朝が架けたものラシイ。また、頼朝は1189年(文治5年)にあの世界遺産の平泉の藤原氏を滅ぼしちゃってマスが、遠征の際に石濱神社に祈願して、ソレが成就したお礼に社殿を造営したとも。          意外にもこの地は頼朝と縁があったのデした。
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さて、時は家康が江戸に入った後の1594年(文禄3年)、その時代隅田川で一番最初の、現在の千住大橋のモトとなる「大橋」が架けられます。 となると、今まで利用されていた橋場の渡しや隅田の宿への道筋が変わってしまい、栄えていた隅田の宿は成り立たなくなり、宿場の関係者はどうやら千住に移り住んでしまったようで、付近は、静かで美しいモトの隅田村、寺島村に。
利根川の流れが変わってきて隅田川の水量も減って、水運は往時の活況さがなくなり、やがて石浜城も廃城に。
長くなってsoranゴメン20.gif・・・今ある言問橋西の交差点はかつて「浅草追分」と呼ばれ、奥州街道や宇都宮まで重なっていた日光道中などの道筋で、南から北上すると左右に分岐するので"追分"。片や左へ行くのが、千住大橋が架けられてからのメイン・ストリートで、かつては、たんぼ道に家三軒があって三屋、三家から"山谷"さんや となったとも言われる所を通って南千住経由で千住大橋に至る道で、現在の江戸通りにつながる吉野通り。 他方の右は、隅田川に沿う「かまくら道」でもあった古道で、"永井荷風 すみだ川"でご案内した竹屋の渡しや橋場の渡しに通じている道、今や橋場通りとなって、その昔「思川」おもいがわ と言われた小川?にできた現在の明治通りの白鬚橋タモトまで。
左"吉野通り"へ 《浅草追分け》 右"橋場通り"へ    左には"石浜通り"も 《無名の追分け?で》 右が橋場通り
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年月がさらに過ぎて1657年(明暦3年)徳川幕府4代将軍家綱の時代、東岸には、「隅田御殿」というものがつくられて歴代将軍が足を運んだそうだ。が、今ではほとんど知られていないのネ。"春のうららの 「花」と墨堤"で記したとおり、墨堤には、8代将軍吉宗になると多くの桜が植えられ年々増えて・・・
                      風光明媚な「桜の名所」として当時の錦絵にも残るところとなるのでアリンス。

一方の西岸では、同年正月に発生した「明暦の大火」ののち、旅人が通ることもなく静かだった観音裏の浅草田圃たんぼ に突如、日本橋から遊郭街が移転してきて「新吉原」が。 隅田川から通じる山谷堀には猪牙舟ちょきぶねが浮かび、多くの船宿や江戸随一と評判になった八百膳や有明楼といった高級料理屋もできたようで、浅草観音や芝居小屋の賑わいともあいまって・・・           浅草が「江戸第一の繁華の地」となっていくのでアリンス。

それまで浅茅が原あさじがはら、浅草田圃と呼ばれていたところに町並みが形成されると、江戸の郊外地扱いだった石浜 橋場、今戸、山谷、浅草などのエリアは江戸「町方」に組み入れられて町奉行所の管轄区域に、また、本所の北になる向島は町方範囲外の地方ぢかた のまま、代官支配の郊外地として明治に移っていくのデシタ。
                                             --Thanks for your patience--
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